ボヘミアン・ラプソディ

 

映画というものは今までにそれ自体にさほど関心がなかっった人物や出来事、音楽、歴史に

感銘を受けるとそれを自宅に帰るなり調べて興味をさらに広げ抱かせる最高の

娯楽であると私は思っている。

魂が欲求するという表現に近い感動がある。

 

本来は年間に5本から6本は観劇に向かいたいのであるが

今年はわずかに4本にとどまった。

邦画2本(カメラを止めるな・万引き家族)と洋画(グレイテスト・ショーマン)
とこの1本になった。

 


その洋画とはボヘミアン・ラプソディ

 

クイーンを描いたボヘミアン・ラプソディは周囲の前評価は高く

音楽好きなメンターは感動をそれぞれに伝えてくれた。

 

私はクイーン世代ではあるが熱烈にアルバムを買ったというファンではない。

そんな私でさえ耳慣れたメロディは今も色あせず残っているのは彼らの偉大な音楽センスが

語り継がれるには十分なほどのアートなのだと私は思う。

 

音楽を時にジャンル別という方向で分けることがあるが

ジャンルが超えてしまう音楽を私は自分の中でROCKと位置付ける。

彼らの音楽はまさに当時のROCKというカオスを常に求めチャレンジして枠を設けないスタイルであった

ことであろう。

 

それぞれのバンドメンバーの個性が音楽という調和をいい意味で

世界に向けて発信し続けていた。

 

そんなメンバーのフレディ・マーキュリー氏はもうこの世にいない。

45歳の若さでこの天才ロッカーは世を去る。

HIV感染で音楽人生に終止符を打つまでを描いたこの映画は

様々な生き方があることを映画を通じて教えてくれる。

 

彼は映画の1シーンでパフォーマーという言葉を自らの表現するのに

使用した。

パフォーマーが一番自分に向き合う時間は一人の静かな自宅部屋である。

いつも周囲に人があふれ愛する人がそばにいる時には感じ得ない孤独。

 

孤高を感じる際にパフォーマーは全ての成功より求めるものは

たったひとりの友である。

 

経営者が孤独であるという表現は異業種の経営者同士の中でも出てくることはある。

 

順調に社交的で利益も出ていたとしても不安や恐怖に自殺や悪い方向へ追い込んでいくのは

理解を求めるが故の孤独がさせているのだと私は思う。

 

日本でも成功している方の生涯の本質にはいつもこの孤独というものに

悩むパフォーマーの生き方が出てくる。

世界共通であるパフォーマーの孤独は有名になればなるほど人を愛せば愛するほどに

大きくなりその修正が自分の力ではなきないものになる。

 

そばに寄り添う猫がこの映画でも彼の理解者の絵面になるシーンがある。

 

私は人生は自分で決めるということはできず、たくさんの人によって

導かれる中で孤独と向き合う時間をそろぞれがなくす時間探しだと

この映画を観て感じた。

 

どんな人も人に出会わねば孤独の辛さや怖さは知ることもない。

だけど人を愛し愛すほどに孤独は生まれ

外へ意識があればあるほど内向きな自分の孤独感へは気づかないで破滅してしまう。

 

音楽を通じて伝説を残したクイーンから得るものが大きければ大きいほど

私たちは大きな愛を受けたということあろう。

 

ホイットニーヒューストンさんを描いたドキュメンタリー映画『Whitney』とは

違う映画ではあろうが私には想像を超えた孤独を垣間見た映画でした。

 

フレディ・マーキュリー氏の命日であった11月に際し

心から哀悼の意を捧げます。

 

 

 



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